日々の泡。

popholic diary

2022年11月19日~25日の話。

2022/11/19

8時起床。朝のうちに少し日記を書いてから電車に乗って京都へ。明らかに人が増えていて地下鉄などはかなり混雑している。喧騒から逃れてアップリンク京都で映画。

まずは関友太郎、平瀬謙太朗、佐藤雅彦の3人からなる「5月」監督作「宮松と山下」を観る。ピタゴラスイッチなど数多くの実験的な新しいアイデアを生み出す佐藤雅彦の映像作品となればやっぱり見ておきたい。主人公は名もなきエキストラ俳優・宮松。実は彼は過去の記憶を失っていて、自分はいったい誰なのかわからない。そんな彼の過去が明らかになっていくのだが…という物語。しかしこの映画はストーリーを見せていくというより「演技」を見せていく。宮松を演じるのは香川照之。(いろいろあるけどいったんそれは置いておこう)。名前のない人物を日々演じる宮松。その静かな暮らし。明かされていく過去。香川照之によるミリ単位の演技をカメラは捉え、じっくりとその演技を映し出していく。登場人物の心の動きや頭の中を、役者はどう目に見える形で体現するのか。なんとも不思議な感触の映画だった。

次の映画まで少し時間があったので行きたいと思っていた「キッチンゴン」まで。ピネライスのランチセットを食べる。気取らない洋食。ランチ一つで少し幸せな気分になれるもんだ。

アップリンク京都に戻りジョン・ブアマン監督「未来惑星ザルドス」を観る。1974年、ショーン・コネリー主演のSF作。変態仮面みたいな恰好をした胸毛ボーボーのショーンコネリーをはじめ、出演者みな半裸という斬新にもほどがある怪作。不老不死を手に入れた未来人たちが暮らすのはユートピアディストピアか。生殖機能を失った人類に捕らえられたやる気ビンビンのコネリー。彼はいったい何者か!?正直、どんな気持ちで観たらいいのか戸惑ったが、支配するものと支配されるもの、徹底的に分断された未来はこの映画が作られた時代よりも今の時代からの方がより近く、来るべき遠くない未来だと思えば恐ろしくもなる。

2022/11/20

9時起床。起きられなかった。妻も出かけたのでゆっくり朝食をとり、やっぱり映画館へ。

ユナイテッドシネマで石川慶監督「ある男」を観る。実家の文房具店で働くシングルマザーの里枝。何となく訳アリ風だが優しい大祐と出会い再婚。幸せな暮らしを送っていたがある日不慮の事故で夫・大祐が亡くなる。悲しみの中、長年疎遠になっていたという大祐の兄が法要に現れる。仏壇に手を合わせるもそこにある遺影にうつる「大祐」を観て「これ、大祐じゃないです」と告げる。夫・大祐はいったい誰だったのか。里枝に依頼され弁護士・城戸は「大祐」として生きた「ある男」の過去を探り始める。極上のミステリーの中に仕込まれた数々のメタファー。自分という存在は何によって定義されるのか。名前?国籍?血筋?自分ではいかんともしがたい出自によってカテゴライズされ、人としての価値を値踏みされる。日常に潜むヘイトによって魂を傷つけられる人々。繰り返される差別や偏見の中で、名前を捨て、戸籍を捨て、カテゴライズされない「自分」として生きたいと思うことは罪なのか。まさに現代という社会を映す本年度ベスト級の大傑作!脚本、演出、撮影、編集、どれをとっても一級品。計算されつくしたラストショットの鮮烈さ。妻夫木聡安藤サクラといった役者陣も皆ベストの演技だったが、窪田正孝が実に素晴らしかった。「ある男」という作品そのものの本質を体現するような演技。強烈なインパクトを残す柄本明の怪演も忘れがたい。最新にして最高峰の邦画を観た。素晴らしい作品だった。

帰宅し、「マルコポロリ」観ながらパスタの昼食。

アマプラでキム・テユン監督「SP 国家情報局:Mr.ZOO」を観る。動物嫌いの国家情報局員チュ・テジュは頭を打ってなぜか動物たちの言葉がわかるようになる。中国から寄贈されたパンダが誘拐!元軍用犬のアリとともにパンダの行方を追うってなコメディー。演技派、イ・ソンミンがCG丸出しの動物たちとてんやわんやの大騒動。シン・ハギョンはじめ動物たちの声のキャストも超豪華。ま、いい感じのバカ映画ですね。

夜、娘と娘の彼氏も一緒に鍋。鍋の季節になってきたなー。

2022/11/22

外回りでロングドライブ。radiko中川家の「ザ・ラジオ・ショー」。営業先の新潟でエルフの二人を誘って寿司を喰いに行った話。兄の剛は70年12月生まれの同い年。50を過ぎたおっさんが、20代の女子とどう食事したかを細かすぎる描写で喋るのだがこれがもう抱腹絶倒の面白さ。自分の不甲斐なさを愚痴交じりにぶつぶつ喋る剛が最高に可笑しい。 

2022/11/23

6時起床。雨の中、高速を飛ばして愛荘町。で1日イベント仕事。大津に戻って片付けまでして19時帰宅。ぐったり。ご飯を食べて、風呂に入って寝る。

2022/11/24

配信にて町田まほろ座で行われたライブ「小西康陽小西康陽を歌う」を視聴。元ピチカート・ファイヴ小西康陽。ノンスタンダードレーベルから1985年にリリースされた“PIZZICATO V”の1stシングル「オードリィ・ヘプバーン・コンプレックス」。14歳でこの曲に出会って以来、解散して20年以上たった今も大好きなバンドで、小西康陽さんはずっと大好きなソングライターだ。好きな曲が多すぎるというか好きな曲しかない。自分を形成する中で影響を受けた人っていうのは幾人かいるが、小西さんは間違いなく重要な一人。多感な10代から20代の頃は特に憧れていて小西さんのあらゆる活動に強く激しく心を動かされてきた。文章を書いたり、映画を観たりをいまだに続けているのは今もなお影響を受け続けているからだ。60歳を越えて、自分の書いた曲たちを自分で歌い始めた小西さん。シンガー小西さんは決してうまい歌手じゃない。むしろ下手だと言っていい。でも小西さんにしか歌えない歌がある。もたつき、止まり、何度もやり直しては歌う。MCでぼくの書いた曲は全部同じだと語った小西さん。愛し合った二人はやがて別れる、確かにここで歌われた歌のほとんどは愛の終わりを歌っている。歌の主人公たちはどこか冷めた目つきで終わっていく愛を静かに見つめている。どんな愛もいつかは終わる。それは自然の摂理であり、宇宙の法則。さよならだけが人生だ。白髪に白髭、初老のソングライターが自らが書き続けてきたそんな愛の終わりの歌を歌う。一人のソングライターの人生を凝縮した、まるで一遍の映画のような2時間。ラストに歌われたのは「マジック・カーペット・ライド」。発表当時は幸せな愛の歌として聴いたが、今聴くとこれは儚く、決して叶うことのない夢を歌った歌に聴こえる。「2000光年を/ペルシャ絨毯で/もう一度/ひとっ飛びしましょ」。そんな何気ない、2番を埋めるために書いたフレーズに感極まり、涙を流し歌えなくなってしまう。身を削り魂を込めて曲を書き続けた真のソングライターの美しくも胸を打つ姿がそこにあった。観ていてちょっと泣いた。

2022/11/25

やっと金曜。今週はやけに疲れた。それなりに楽しくやってるように見せてるけど、気を使い、愛想笑いを浮かべ、頭を下げて、自分を殺していると魂がやつれていく。営業はキツイぜ。

帰宅し、配信終了前にもう一度「小西康陽小西康陽を歌う」観る。10代の頃からずっと聴いてきて、50代になった今も聴き続けている。自分がなぜこんなにも彼の作る歌に惹かれるのか。うまく言葉にできないけれど、その答えがここにある。