日々の泡。

popholic diary

映画「福田村事件」の話。

森達也監督「福田村事件」を観た。

舞台は1923年、千葉県福田村。朝鮮から生まれ故郷である福田村に妻・静子とともに帰ってきた元・教師の澤田。村の教師にと頼まれるが頑なに断り百姓として暮らし始める。モダンなファッションに身を包みどこか浮世離れした妻・静子との夫婦生活は破綻寸前である。映画の前半では彼らを中心に登場人物たちの日常を丹念に描いていく。デモクラシーに未来を夢見る村長の田向、軍服を着て虚勢を張る在郷軍人会の長谷川、夫が戦争に行っている間に不貞をした咲江、その相手は村の中でもはみ出した存在である船頭の倉蔵。一人息子は妻と父の間にできた子ではないかと疑う茂次…映画は時間をかけて村に暮らす人々の生活を映し出す。のどかに見えて、どこか閉鎖的で排他的、噂話は広まり見えない呪縛がそこかしこにある。じわじわとそれぞれの心に不満や鬱憤、憎悪が広がり村全体を静かに支配していくのがわかる。一方、新助率いる薬売りの行商団は四国の讃岐から関東地方に向かっている。時にインチキ臭く、時にあくどく薬を売りながら東に向かう。彼らは被差別部落民であり、行商団には男、女、妊婦や子供まで様々な人がいる。立場も思想も違う多くの人たちの視点が交差する。

そして1923年9月1日、関東大震災が発生。混乱と不安の中、「朝鮮人たちが略奪、放火をしてまわっている」「集団で襲ってくる」というデマが放たれる。そして人々の心に充満した不満、鬱憤、憎悪に恐れが加わり一気に暴力として燃え広がる。福田村にも暴力の炎は及ぶ。行商団の一行を「朝鮮人に違いない」と取り囲み、一触即発の中、ある人物の思わぬ行動により一気に暴力は爆発する。澤田と静子、田向、倉蔵は必死に止めようとするが、爆発する暴力の前で彼らは無力で非力だった。妊婦や幼い子供たちまでもが無残に殺されてしまう。「朝鮮人と間違えられ殺された」だがそれだけだろうか。行商団の新助は問う「朝鮮人なら殺してええんか?」と。その問いの答えは見つからないまま、彼らは「殺してもいい者」と認定され切り捨てられたのだ。暴力とは無縁だった人たちがちょっとのきっかけで加害者となり、右へ倣えでいともたやすく人の命を奪う恐ろしさ。知性や理性、人が人として積み上げてきたものがあっけなく崩れていく様に心がひどく動揺した。先にも書いたように立場も思想も違う多くの人たちがこの映画には登場する。右も左もノンポリも、差別する者、差別される者、威張ってる者、卑屈な者、自由な者、縛られてる者、幸福な者、不幸せな者、様々な視点が交差する。誰もが誰かに自分を映して映画を観ることになるだろう。事件を目の当たりにしたリベラル派の村長の顔が忘れられない。なす術もなくへなへなと座り込み、小さな声で言い訳するしかないその非力さ。俺は止めたんだ、でも止められなかった、ただ見てるしかなかった。彼が夢見た理想の未来が今まさに音を立てて崩れ去ってしまったのだ。僕はこの男に自分を観た。加害を扇動した在郷軍人会会長の梯子を外された末の慟哭にも心が揺れた。いけすかない威張りん坊で、デマに踊らされ正義の名のもとに人としての一線を越えてしまう。そしてそれが間違いだったと咎められ彼は慟哭する。彼もまた「お国」に切り捨てられたのだ。

この映画に出てくる人たちは皆、何事もなければ普通の人だ。特別善人でもなければ特別悪人でもない。良い面もあれば悪い面もある。そんな普通の人間だ。誰が正義で誰が悪かなんて単純な二元論は通用しない。それぞれの中に正義があり悪がある。平時にはバランスを保っていてもちょっとしたきっかけでどちらにも転んでしまう。そして状況によっても正義と悪は反転してしまうのだ。

だがこの映画には映されない明確な悪がいる。混乱に乗じて意図的にデマを流し、朝鮮人を、中国人を、沖縄人を、障碍者を、被差別部落民を、社会主義者を、バカな愛国者を、自分たちにとって不都合で邪魔な者たちを切り捨てようとした悪が。それは今もこの国にいる。そして国のど真ん中で権力を握ってる。過去を反省せず、歴史を修正し、100年前のデマを今もまだ流し続けている。

ラスト、小舟の上で交わされる澤田夫妻の会話は、映画を観ている観客への問いかけのよう。この舟の行き先を決めるのはあなたたち一人一人だと。

監督以下この映画に携わった全ての人に感謝したい。事件から100年。2023年の今、公開される意味、意義、100年という時間の重さ。今年観るべき映画だし、今後観続けられるべき映画だと思う。一人でも多くの人にこの作品を観て、感じ、考えて欲しい。そしてこの映画がきっかけとなってこの国の負の歴史を見つめ考え語る映画が増えることを願う。

で俳優陣が素晴らしかった。井浦新の繊細さ、田中麗奈の自由な魂、永山瑛太の胆力、東出昌大の身体性。弱さを巧みに表現して見せた豊原功補も、鬱屈からの激しい暴力性を爆発させた松浦裕也も、気高さと強さを秘めた木竜麻生の表情、生と性の激しさを静の中に込めたコムアイ、様々な視点にリアルを与える演技だった。そして特筆すべきは水道橋博士!インテリで裕福な出であろう澤田や田向とは違い、博士が演じた長谷川は自分を押し殺し泥水を啜ってきたのだろう。一番の憎まれ役ながらそんな歴史すら感じさせ、ただの悪役で終わらない。コンプレックスやルサンチマンを軍服で隠し、虚勢を張ることでしか自分を保てない男の歪な在り方を見事に演じていた。ファンであることを差し引いても本当に素晴らしかった!

あと鈴木慶一さんの音楽も素晴らしかったなー。美しくもどこか歪んだメロディと同時にピアノで刻まれるリズムの不穏さ、そして人々の心の動揺、鼓動の早まりを現すような和太鼓の激しさ。村に漂う空気が音楽で見事に表現されていた。改めて、慶一さんの音楽家としての凄味を感じたな。

という訳で必見です。

www.fukudamura1923.jp