日々の泡。

popholic diary

2023年9月2日~8日の話。

2023/9/2

6時起床。7時には湖岸にてイベント仕事。すでに暑い。炎天下で昼過ぎまで働いてぐったり。日焼け対策をまるっきりしないままだったのですっかり焼けてしまった。帰宅途中、スーパーでカップ焼きそば購入。なんがかわからないけど無性に食べたくなったので。帰宅し遅い昼食。ソースの匂いがたまらんなー。それにしても疲れた。もはや肉体労働は危険な年齢だ。

映画館に行くには中途半端な時間なので、クーラーの効いた部屋でピート・ドクター監督「ソウルフル・ワールド」を観る。コロナ禍で劇場公開されなくて残念に思っていた作品。やっと観ることができた。ニューヨークに暮らすジョーはジャズミュージシャンを夢見る音楽教師。ジャズクラブで演奏するチャンスを得て喜び勇んでたのもつかの間、マンホールに落下してしまう。彼が迷い込んだのは死後の世界ならぬ生前の世界。そこで出会ったのは人間の世界に生まれたくない22番と呼ばれる「ソウル」。まだ生きたいジョーと生まれたくない22番が地上で出会ったものは…。「生きる」の意味を考える哲学的な話を見事に楽しいアニメーションとして描く。スゲーなピクサー。「生きる意味」「生きる使命」を求めるがあまり、それが強迫観念となり、視野は狭まりそれがなければ「生きてる意味がない」と人生を捨ててしまう。何かに夢中になり、何かにときめくことはもちろん悪いことじゃないし、それによって人生は豊かになる。だけど、本当は生きてることそのものに意味があって、豊かなことなのだ。ついつい多くを求めてしまう。俺はこんなもんじゃない、でっかい夢をかなえたい、俺はこんなことするために生まれてきたわけじゃない…そんな想いに囚われがんじがらめになって、生の中にある小さなときめきを見落としてしまう。生きることの意味なんてわからない。でも生きてることに意味がある。

しかしその反面ふと思う。そんな風に思えるのは多少なりとも余裕があるからかも。明日食べるものに困っている人がいる、親に虐待されている子供たちや戦場に暮らす人、今ある命を守るのに精いっぱいな人たちにそんなこと伝えられるだろうか。

2023/9/3

昨日仕事で行けなかったので今日は映画館へ。いつもは一人で行くのだが、昨晩妻を誘ったら一緒に行くというので京都シネマまで森達也監督「福田村事件」を観に行く。昨日のうちに予約しといて良かった。映画館着いたら2回の上映はどちらも完売になっていた。

で「福田村事件」。舞台は1923年、千葉県福田村。朝鮮から生まれ故郷である福田村に妻・静子とともに帰ってきた元・教師の澤田。村の教師にと頼まれるが頑なに断り百姓として暮らし始める。モダンなファッションに身を包みどこか浮世離れした妻・静子との夫婦生活は破綻寸前である。映画の前半では彼らを中心に登場人物たちの日常を丹念に描いていく。デモクラシーに未来を夢見る村長の田向、軍服を着て虚勢を張る在郷軍人会の長谷川、夫が戦争に行っている間に不貞をした咲江、その相手は村の中でもはみ出した存在である船頭の倉蔵。一人息子は妻と父の間にできた子ではないかと疑う茂次…村に暮らす人々の生活を映し出す。のどかに見えて、どこか閉鎖的で排他的、噂話は広まり見えない呪縛がそこかしこにある。じわじわとそれぞれの心に不満や鬱憤、憎悪が広がり村全体を静かに支配していく。一方、新助率いる薬売りの行商団は四国の讃岐から関東地方に向かっている。時にインチキ臭く、時にあくどく薬を売りながら東に向かう。彼らは被差別部落民であり、行商団には男、女、妊婦や子供まで様々な人がいる。そんな風に立場も思想も違う多くの人たちの視点が交差する。そして1923年9月1日、関東大震災が発生。混乱と不安の中、「朝鮮人たちが略奪、放火をしてまわっている」「集団で襲ってくる」というデマが放たれる。そして人々の心に充満した不満、鬱憤、憎悪に恐れが加わり一気に暴力として燃え広がる。福田村にも暴力の炎は及ぶ。行商団の一行を「朝鮮人に違いない」と取り囲み、一触即発の中、ある人物の思わぬ行動により一気に暴力は爆発する。澤田と静子、田向、倉蔵は必死に止めようとするが、爆発する暴力の前で彼らは無力で非力だった。妊婦や幼い子供たちまでもが無残に殺されてしまう。「朝鮮人と間違えられ殺された」だがそれだけだろうか。行商団の新助は問う「朝鮮人なら殺してええんか?」と。その問いの答えは見つからないまま、彼らは「殺してもいい者」と認定され切り捨てられたのだ。暴力とは無縁だった人たちがちょっとのきっかけで加害者となり、右へ倣えでいともたやすく人の命を奪う恐ろしさ。知性や理性、人が人として積み上げてきたものがあっけなく崩れていく様に心がひどく動揺した。先にも書いたように立場も思想も違う多くの人たちがこの映画には登場する。右も左もノンポリも、差別する者、差別される者、威張ってる者、卑屈な者、自由な者、縛られてる者、幸福な者、不幸せな者、様々な視点が交差する。誰もが誰かに自分を映して映画を観ることになるだろう。事件を目の当たりにしたリベラル派の村長の顔が忘れられない。なす術もなくへなへなと座り込み、小さな声で言い訳するしかないその非力さ。俺は止めたんだ、でも止められなかった、ただ見てるしかなかった。彼が夢見た理想の未来が今まさに音を立てて崩れ去ってしまったのだ。僕はこの男に自分を観た。加害を扇動した在郷軍人会会長の梯子を外された末の慟哭にも心が揺れた。いけすかない威張りん坊で、デマに踊らされ正義の名のもとに人としての一線を越えてしまう。そしてそれが間違いだったと咎められ彼は慟哭する。彼もまた「お国」に切り捨てられたのだ。

この映画に出てくる人たちは皆、何事もなければ普通の人だ。特別善人でもなければ特別悪人でもない。良い面もあれば悪い面もある。そんな普通の人間だ。誰が正義で誰が悪かなんて単純な二元論は通用しない。それぞれの中に正義があり悪がある。平時にはバランスを保っていてもちょっとしたきっかけでどちらにも転んでしまう。そして状況によっても正義と悪は反転してしまうのだ。

だがこの映画には映されない明確な悪がいる。混乱に乗じて意図的にデマを流し、朝鮮人を、中国人を、沖縄人を、障碍者を、被差別部落民を、社会主義者を、バカな愛国者を、自分たちにとって不都合で邪魔な者たちを切り捨てようとした悪が。それは今もこの国にいる。そして国のど真ん中で権力を握ってる。過去を反省せず、歴史を修正し、100年前のデマを今もまだ流し続けている。

ラスト、小舟の上で交わされる澤田夫妻の会話は、映画を観ている観客への問いかけのよう。この舟の行き先を決めるのはあなたたち一人一人だと。

監督以下この映画に携わった全ての人に感謝したい。事件から100年。2023年の今、公開される意味、意義、100年という時間の重さ。今年観るべき映画だし、今後観続けられるべき映画だと思う。一人でも多くの人にこの作品を観て、感じ、考えて欲しい。そしてこの映画がきっかけとなってこの国の負の歴史を見つめ考え語る映画が増えることを願う。

で俳優陣が素晴らしかった。井浦新の繊細さ、田中麗奈の自由な魂、永山瑛太の胆力、東出昌大の身体性。弱さを巧みに表現して見せた豊原功補も、鬱屈からの激しい暴力性を爆発させた松浦裕也も、気高さと強さを秘めた木竜麻生の表情、生と性の激しさを静の中に込めたコムアイ、様々な視点にリアルを与える演技だった。そして特筆すべきは水道橋博士!インテリで裕福な出であろう澤田や田向とは違い、博士が演じた長谷川は自分を押し殺し泥水を啜ってきたのだろう。一番の憎まれ役ながらそんな歴史すら感じさせ、ただの悪役で終わらない。コンプレックスやルサンチマンを軍服で隠し、虚勢を張ることでしか自分を保てない男の歪な在り方を見事に演じていた。ファンであることを差し引いても本当に素晴らしかった!

あと鈴木慶一さんの音楽も素晴らしかったなー。美しくもどこか歪んだメロディと同時にピアノで刻まれるリズムの不穏さ、そして人々の心の動揺、鼓動の早まりを現すような和太鼓の激しさ。村に漂う空気が音楽で見事に表現されていた。改めて、慶一さんの音楽家としての凄味を感じたな。

www.fukudamura1923.jp

映画を観終わり、久しぶりに妻と京都をウロウロ。カフェでコーヒーを飲んで映画の感想を喋ったり。学生の時に出会ってからもう30年以上過ぎた。今じゃ立派な初老夫婦だ。

2023/9/4

遅い夏休みを一日。朝からYouTube「博士の異常な対談」月イチ博士と町山、ゲスト森達也監督3本を一気に。映画の補助線。相当過酷な現場だったのだなと。そして昨日買った「福田村事件」のパンフをじっくりと読む。特に重要だと思ったのは福田村事件追悼慰霊碑保存会会長の市川正廣氏と脚本の佐伯俊道氏の対談。事件について長きにわたり調査・研究を進めてきた市川氏による映画への苦言。映画はエンタメ作でありフィクション。「福田村事件」を知らしめるという意味で映画は重要だが、それゆえに映画が全て真実だと一人歩きすることへの危惧。後世へ語り継ぐために長らく事件を研究してきた市川氏の言葉は重い。この真摯な苦言をしっかりとパンフに記した映画制作陣の誠実さも感じられた。

久しぶりにブックオフを覗き、文庫本を数冊。近所にある唯一の本屋は新書と啓発本、売れ筋本が並ぶが、正直本への愛があまり感じられない上に品揃えも痒いところに手が届かない。旧作や文庫本に至ってはブックオフの方が品揃えいいという現実。

そうめんの昼食の後、配信で映画を一本。ドミー・シー監督「私ときどきレッサーパンダ」を観る。これもコロナ禍で劇場公開されなかった作品。母親の言うことが絶対でいつもマジメな13歳の少女メイメイ。でも本当は男の子のアイドルグループに夢中。自分の感情をうまくコントロールできないでいる。ある日、目を覚ますとメイはレッサーパンダに!この変身はいったい何?果たしてメイは人間に戻れるのか…ってなお話。思春期の女の子の心と身体の成長、そして母親との関係が奇抜な設定と愉快痛快なアニメーション表現で描かれる。監督のドミー・シーは主人公と同じ中国系の女性。個人的な物語をエンタメ作品として昇華するピクサー作品の王道。自分の中に抑え込んでいる様々な衝動や欲望、そして女性の生き辛さや呪縛をレッサーパンダとして表現。実はかってレッサーパンダに変身し大暴れした母親、それを封じ込め娘を想うあまり過保護になって娘までも縛り付けている。今を生きる娘の選択は違う。レッサーパンダである自分を受け入れ愛してくれる友人たち、封じ込めるのではなく受け入れることで彼女は自由に羽ばたいていく。そしてそれはかってレッサーパンダだった母親も救うことになるのだ。そんな物語をとびきりポップでキュートで楽しいアニメにした本作。多くの子供たちに観て欲しいな。

夜は冷凍庫に眠ったままだった貰い物の牛肉ですき焼き。もはや数年に一度しか食べない感じだが、やっぱ美味いなー。

2023/9/5

休み明けの仕事は辛い。黙々と働き帰宅。YouTubeで「【東野山里のインプット】フジテレビ「はやく起きた朝は…」をインプット」の回を観る。漫才コンビ「夫婦のじかん」の山西章博磯野貴理子松居直美森尾由美の長寿番組「はやく起きた朝は…」の面白さを東野幸治山里亮太にプレゼンするという企画。元々、相方である妻(元タカダ・コーポレーション、一億円拾った大貫さんの孫娘)が30年間見続けていてその影響で好きになったというのだが、番組自体の特異さと山西氏の喋りの達者さもあってめちゃめちゃ面白い。本題に入る前の妻が「食」に全く興味ない話も面白かった。神回としてあげる「磯野貴理子が離婚を告白する回」に見入る東野&山里。まだまだ未知の世界があるなー


www.youtube.com

2023/9/6

今日も一日働いた。風呂に入り、夕飯を食べ、部屋で美酢のソーダ割を飲みつつぼんやり過ごす時間が一番好きだ。でここんとこYouTubeでついつい見ちゃうのがフェリーの動画。大阪南港と大分別府を結ぶ「さんふらわぁ」なんかの紹介動画。今からもう40年近く前、中学の卒業旅行と称して友人たちとフェリーで宮崎まで旅行した。皆でわいわい雑魚寝してそれはそれは楽しかった。大学生の時にも友人たちとフェリー旅した。その時も本当に楽しくて、いまどうなってるのかななんて見てみたら、まぁなんと豪華に進化しているのか。フェリーと言えば雑魚寝のイメージだったがコロナ禍もあり今や一番安いクラスでもカプセルホテルみたいになってんのね。船内は広くきれいでゴージャス、夕食のバイキングも美味そう。フェリーに乗って、船上で一人呑みなんかやってみたいな。

2023/9/7

NHK+で「映像記録 関東大震災」を観る。100年前、関東大震災を映した映像を修復・カラー化。一気にリアルな出来事として迫ってくる。情報が簡単には手に入らない時代。当初はのんびり構えていた人たちも時間が経つにつれ事の重大さ、被害の大きさに気付き始める。街は炎に包まれ、人々は混乱。東京は焼け野原となった。そして広がる不安や恐れ。疑心暗鬼の中、政府や警察、メディアがデマを扇動し、朝鮮人を中心とした人々への虐殺が行われていく。残された証言テープの声が生々しい。映画「福田村事件」はフィクションだが、ここに写された映像、流された証言はノンフィクションである。映画よりはるかに残虐な記録。小池も松野もしっかり観て勉強しておくように。

しかし報道の体たらくぶりを見ると受信料払う気も失せるが、こういうの観るとさすがNHKと思う。修復した映像から少年時代の三木鶏郎を割り出すなど驚いた。どれだけ骨の折れる仕事をしてるのだ。偉い。

2023/9/8

金曜。今日もよく働きました。帰りにネットカフェでコーラ飲みながら文春を読む。町山さんにみうらじゅんクドカンなど充実のサブカルコラムを読むのだが、舌鋒鋭い能町みね子さんのコラムがここんとこの楽しみ。読むたびに背筋が伸びる。

帰宅し、風呂入って、夕飯食べて、リラックスタイム。spotifyで「ビバリー昼ズ」のオープニングトーク聴いたら、いきなり「高田ジュリー文夫です」だって。高田先生、自由過ぎるだろ!「4時間半一回もトイレ行かないの凄いな」ってそんな切り口の人いないよ。翻弄される松ちゃん&磯山さやかのあたふたぶり。そこから急に吉幾三のコンサート話って。