日々の泡。

popholic diary

2014年4月中旬のTweet

2014/4/12

本日は映画を一本。アブデラティフ・ケシシュ監督「アデル、ブルーは熱い色」観てきた。映画を観終わった後、時間が経つほどにその映画や映画の登場人物たちの存在が大きくなり、やがて魂が乗っ取られてしまうような映画がある。まさにそんな映画。アデルのことを思えば、今もまだ胸が張り裂けそうだ。高校生のアデルは文学好きのちょっと垢ぬけない女の子。そんな彼女が出会った、運命の人は、青い髪をした年上の女性、エマだった。アデルが体験する、とまどい、喜び、悲しみ。一生に一度の、剥き出しの愛の物語。まるでドキュメンタリーのように体験が迫ってくる。二人のまるで貪るように求めあう濃厚なラブシーン。その激しさゆえに、やがて訪れる深い喪失が胸に迫る。アデルの表情が、その瞳が、頭から離れない。これは大傑作だ。主演のアデル・エグザルコプロスがとにかく素晴らしい。全身全霊の演技を超えた、本物の体験を見せてくれる。相当きついとこまで追い込まれたであろうが、アデルは誰もの心に強烈に残る存在になった。

で映画の後はライブ。西村哲也@音凪。「運命の彼のメロディ」レコ発。楽曲の良さが浮き彫りになるエレキ弾き語りでの貴重なライブ。解説もまた楽し。

2014/4/13

今日も映画を一本。オ・ミヨル監督「チスル」観てきた。7年もの間に3万人が犠牲となった済州島4.3事件。1948年4月3日の武装蜂起を発端に、韓国軍は海岸線5kmより内陸にいる人間は全て暴徒とみなし鎮圧の名のもとに無差別虐殺が行われた。今もなお謎が多くタブーとされる事件を描く。救われることのない悲劇がモノクロの映像で静かに描かれる。殺す側も殺される側も「理由」などわからない。ギリギリの攻防は一体何の為に。いつだって悲劇は心優しい市井の人々を踏みつける。殺す側と殺される側。ちょっとしたlとでいつでも逆転する関係。戦争はこの両者の対立ではない。「殺し合いさせられる側」と「殺し合いさせる側」がいるのが戦争。「殺し合いさせられる側」が「殺し合いさせる側」を選ぶのが選挙なのか。「殺し合いを止める」人を選びたいもんだ。それにしてもこの重い作品を手掛けたオ・ミヨル監督。画のセンスがとんでもなく素晴らしかった。完璧にデザインされた画面、ハッとするような構図や表現の新しさ。切れ味鋭い見せ方はそれだけでも映画的興奮があった。

2014/4/14

今日は担当する番組のゲストとして細馬宏通さんに来て頂いた。短い時間ながら「うたのしくみ」からユーミンの「やさしさに包まれたなら」、さらに「アナと雪の女王」の「Let it go」について語って頂く。パーソナリティ、スタッフ、もちろんリスナーからの反響も大。良かった!

「POP DIVER」で取り上げる曲だったり、今日の細馬先生だったり、既に届いてる人には届いてる。でもラジオで紹介することで、届くはずじゃなかった人にも届けたいし、届く可能性を広げたい。「知の出会い系ラジオ」をやりたいのだ。力も金も人脈も無いラジオマンなのであえてここで書きますが、音楽関係だったり、映画や本、スポーツなどなどなんでも、届けたいという想いをお持ちの方、気軽にお声かけてください。いっしょに出来ることを考えましょう。

2014/4/19

本日は映画デーと決め込み、朝から京都シネマへ。まずは呉美保監督「そこのみにて光輝く」観る。日本映画らしい湿度と暗さを持った作品。不幸の吹き溜まりのような場所から希望に向かおうとする登場人物たち。不吉な予感しかしない物語の向かう先。息をのむ映画だった。池脇千鶴横綱相撲。彼女から沸き立つ匂いが映画を支配していた。凄い。日本映画界の次世代エース・菅田将暉、着実に名バイプレイヤーの道を進む高橋和也も良かった。

朝一でこってりの次はさわやかに。パスカル・プリッソン監督「世界の果ての通学路」。文字通り世界の果てに暮らす子供たちの通学風景を追ったドキュメンタリー。「車に気をつけて」ならぬ「象に気をつけて」通学をするケニアの兄妹、「自転車通学」ならぬ「馬通学」するアルゼンチンの兄妹。4時間かけての通学はモロッコの3人の少女たち、そして足が不自由な長男を車椅子に乗せて片道4kmの通学をする3兄弟。映されるのは彼らの通学風景のみ。学ぶことの大切さを理解している子供たちの姿。なにげない兄弟達の思いやりなどもうお父さんは泣いちゃう。当たり前のように兄の車椅子を押す弟二人。弟は兄を慕い、兄は弟たちを想う。ケニア、アルゼンチンの兄妹もまた然りで、もうその姿の美しさと言ったら。おっちゃん、こういうの弱いねん…

そして最後はもう一本ドキュメンタリー。コーヒーで一休みして覚悟を決めて臨む。ジョシュア・オッペンハイマー監督「アクト・オブ・キリング」観る。1960年代、インドネシアで起こった100万人規模の大虐殺。今も英雄として君臨する虐殺者。そんな彼らがカメラの前で虐殺行為を再現して見せる。ニコニコと笑いながら、嬉々として虐殺の様子を語り、演じて見せるかっての大量虐殺者たち。よりリアルに過去を再現しようとする中で、彼らは被害者やその家族たちの姿、そして加害者である自分自身を客観的に見つめていくことになる。もはや笑ってしまうほど、呑気に虐殺を語っていた彼らの顔が、いつしか変わっていく。人はそれが許される状況ならどこまでも残酷で残虐な存在になってしまう。「英雄」と称えられる彼らが自分の「罪」を知る瞬間。とにかく何もかもが揺さぶられる映画だ。とても「怖い」映画である。でもその「怖さ」は、どこか遠くにあるものではなく、ごく身近に、なんなら自分自身の中にもある「怖さ」なのだ。今もその「怖さ」の火種はそこかしこにある。そしてその「怖さ」から目をそらしてはならない。それが唯一の対処法なのだ。