日々の泡。

popholic diary

サンキュー

えっと、そんな訳で、久々の更新となります。ご心配頂きましてありがとうございます。
なんというか、怒涛の一週間でした。詳しくは追々と書いていきますね。うん、なんだろーな、どうしようかなとも思ったけど、僕が出来る唯一のことはこうして書くことだから。でまぁ少々長くなるし、あまりにも個人的なことだけどお付き合いください。それではとにかく3月9日の日記からです。


3月9日、金曜。朝6時過ぎ、母からの電話で起こされる。父の様子がおかしい、すぐに来て欲しいとのこと。布団から飛び出し車を病院へ走らせる。いくらなんでもすぐにどうということはないだろうと娘は学校に行かせるつもりで出てきたのだが、途中思い直して娘連れて病院へ来てくれと妻に連絡。

去年の2月9日、伯父(父の兄)が亡くなった。父とは10歳違いで最後の10年は寝たきりだった。早くに父を亡くしていた僕の父にとっては親代わりだったのだが、42歳の時に大病をしてそれからは逆に父が仕事から何からずっと気にかけ面倒を見てきた。なんとなく胃が痛いんだと言いながらも、そんな叔父の最期を看取り、葬儀を全て取り仕切った。祖母も伯母も伯父もみんな送り出した父は、やっとこれから自分の生活を楽しむ番だった。叔父の葬儀が終わり落ち着いたところで、調子が悪かった胃を検査すべく病院へ。即入院。胃癌だった。

7時過ぎ病院に到着。父は大きく目を見開いたまま荒い息をしている。鼻には酸素を送るチューブ。母は父の手を握りしきりに話し掛ける。でも大きく開かれた目は、どこも見ていない。父の手を握る。冷たい手。

そして去年の3月の終わりに手術。無事成功。胃は結局全摘出となった。数週間後には退院もしてその後、経過は順調。のはずだった。しかし再検査で転移が見つかる。家族で話をし抗がん剤治療を続けることにした。父もがんばって苦しい治療に挑んだ。その甲斐あってか、一時は大津の僕の家まで電車で来ることが出来るようにまでなった。ただ、あれだけ食べることが好きだった父が、茶碗に半分のご飯も食べられなくなっていた。そして食べられないことで体力はどんどん落ちていった。術後体重は20キロも落ちていた。

12月の終わり腹痛を訴え、再入院。まぁ点滴を打って、体力をつけ数週間後には退院できるだろう最初はそんな気持ちだった。明けて07年。お正月は外泊許可を貰って一時帰宅。お雑煮を少し食べたが、大半の時間はソファで苦しそうに横になっていた。一日の夕方にはまた病院へ。

9時前に妻と娘が到着。父の状態は変わらない。

1月の半ば、主治医の先生から呼び出し。転移した癌はさらに広がっている。抗がん剤の治療が体力を奪う結果になっていた。2月の旧正月に香港在住の兄が帰ってくるのだと先生には伝えていたが、間に合わないかもしれないと兄が緊急帰国。家族で先生と話し合い。とにかくゆっくりでもいい。抗がん剤は一旦中止し、まずは体力を戻すように治療して欲しいとお願い。それでもその時はまだ父は一人で座ることも出来たし、支えながらでも歩いてトイレに行くことも出来た。話してもしっかりしてるし、とてもそんなに悪いようには見えなかった。

2月になって先生の勧めもあり、週末一度家に帰ってみようということになった。もう点滴は腕からは入れられなくなって肩から入れているし、尿の管もついたまま。それでも介護タクシーを頼めば寝たままで運んでもらえる。不安があったんだろう、最初父は帰らないと言っていたが、それでも最終的には自分で帰ると決めた。2月10日、父の70回目の誕生日は自宅で過ごせた。問題なく無事に一時帰宅できたことで自信がついたのだろう。次の週は、旧正月で香港から兄が帰ってくる。それに合わせてもう一度帰宅。みなで賑やかに旧正月を過ごした。病院に帰った父は看護婦さんにどうだったと聞かれ「うるさかった」と答えたんだと。父らしいひねくれたジョークだ。

次の週も帰る予定にしていた。母一人では自宅介護は難しいが、週末なら僕が泊まりこめる。この2回の帰宅で要領もわかってきたし、これからは平日は病院で、週末は家で過ごそうと決めていた。だが体調が悪くなり断念することになった。抗がん剤治療はもう止めていた。とても堪えられる体力じゃないと主治医の先生に言われ、僕たち家族は話合った上で、痛みを取り除く緩和治療への切り替えに同意した。お腹に貼る痛み止めの麻薬。黄疸が出始め、処方する麻薬の量は徐々に増えていった。

翌週、体調は若干戻り先生からもOKを貰って帰ることになった。父は直ぐにでも帰りたいと言い始め、土・日の予定を1日早め3月2日の金曜から二泊三日で帰宅することになった。土曜、家族で実家へ。賞を貰った娘の絵を学校から借りて持っていく。ベッドの上で父はその絵を食い入るように見つめていた。父の横に寝そべっていっしょにテレビを見ながらたわいのない話をした。テレビには美味しそうな料理。病院じゃ食べたいものが食べたい時に出てこないんだと父。そんな話をポツリポツリと。

9時過ぎ。目を見開いたまま必死で息をしている父。僕が病院に着いてからもう2時間。母は妻に銀行へ行く用事を頼み、ついでに娘に本でも買っておいでと病室から二人を出す。いつまでもこの状態が続くような気さえしていた。

3月4日、日曜。朝から父が好きだったロールケーキを買いに行く。暖かな日差し。みんなで食べようかと言うと、この2ヶ月ほとんど何も食べてない父も食べたいと言う。もう一人では座ることも出来ない。母と二人で起し、座らせる。父と母と3人でケーキを食べる。生クリームとスポンジケーキ、少しずつ父の口に運ぶ。ゆっくりと噛み締める父。

3月7日、水曜。母から電話。父の反応がおかしい、話かけても判ってるのかどうなのか…と。電話口で母は泣いている。すぐに会社を早退して妻と娘といっしょに病院へ向かった。覚悟して病室に入る。サオリ(娘の名前)が来たよ。母が話し掛けると父はふとこっちを見た。朝から意識がなかったなんてとても信じられないぐらいその目はずっとしっかりしていた。「みんな居るのか?」と父は言った。朝から一言も喋らなかったのにと母は驚いていた。「…みんなで住む。…同居や。同居の準備をしてくれ…」。聞き取りにくい声で父が言う。痛み止めの麻薬の量はもう随分増えている。現実と夢の境目がなくなっているのだろう。「わかった。ちゃんとしとくから。安心しいや」僕はそう言うしかなかった。主治医の先生と別室で話。今週、来週がヤマになるでしょう。そう告げられる。でも想像していたより父はほんとにしっかりとしていた。1月に、兄が帰ってくる旧正月までもたないかもしれませんと言われたが全然大丈夫だったじゃないか。今だってまだ全然しっかりしてるよ。意識がなくなったなんて母も大袈裟なんだからとさえ思った。大丈夫、全然しっかりしてるよ。帰る時、娘の手を握り微笑んでバイバイをして別れた。
その夜、父の朦朧とした言葉を思い返し、僕らといっしょに住みたかったのかなと思うとどうしようもなく泣けてきた。

3月7日、木曜。何度となく母に電話。状態は変わらず。今日は来なくていいからと母。じゃあ今日は仕事出来るだけやって明日は金曜だから早めに終わらせて泊るからと僕。そしてその夜、明け方近く急に息が荒くなったらしい。

9時半。なんとなく息をする間隔が長くなっているよう。それでも父は大きく目を見開いて必死に生きている。数日前から父の胸には心拍数がモニターできるように器具が付けられている。ナースセンターでチェックしてくれているのだ。

9時45分心拍数が映し出されるモニター画面を持ってバタバタと看護婦さんが駆け込んでくる。テレビでよく見る画面。ピッピッピッとグラフが映し出される。右上の数値が50から40に、40から30に見る見る落ちていく。息をする間隔が、またさらに長くなる。
そして-息が止まる。モニターの右上には「0」という数字が映し出され、グラフは一本の直線になった。

3月9日、9時49分。父が死んだ。

ケーキを食べた後、一眠り。病院へ戻るための介護タクシーが来る少し前、父が僕を呼ぶ。背中をさすって欲しいと言うので布団の間に手を入れさする。10分、20分、ゆっくりと父の背中をさする。そして父は僕を見て、右手を振ってなにか言った。えっ?何や?聞き返すと、父ははっきりと「サンキュー」と言った。
父と自宅で交わした最期の言葉だ。

まったく、なにが「サンキュー」だ。それはこっちの台詞だよ。最期まで気ばっかり使ってやがる。いつも僕が行くと迷惑かけてスマンなと言ってたな。しんどいはずなのに、お見舞いのお客さんが来ると急にしっかりして饒舌になる。看護婦さんたちも言う。どうですか?と問い掛けると絶対に大丈夫って答えるんだと。どうせ最愛の孫娘に最期の瞬間を見せないように、病室を出たタイミング見計らって逝っちゃったんだろう。
何だよ、やっとこれから自分が楽しむ番だったのに。みんなに頼りにされて、みんなの面倒を見て、十分すぎるぐらい人のことはやりきった。
僕は昔からなんというか大人を冷静に見てた。生意気な言い方だけど、この人は尊敬できるな、とか、凄いなという大人に出会うことは実生活に置いては少なかった。でもはっきり言える。父は僕が唯一尊敬できた大人だった。息子としてこんな幸せなことはないと思う。

だからこっちの台詞を言わせて欲しい。

サンキュー。