日々の泡。

popholic diary

相変わらずさ

さて変則的に更新。
まずは読んだ本、浅草キッド「キッドのもと」読了。水道橋博士玉袋筋太郎両氏がそれぞれの「もと」になった出来事や想いを綴る。両親への想い、家族への想い。二人の物語に触れ、自身の物語を思う。僕もかって「息子」だった「父親」なので。そして浅草フランス座での青春譚、そのどん底ぶり。若さとバカさが空回りする様と最後の日の話。感動的ですらあって、これ映画化してほしいぐらい。北野武監督で…なんて夢想する。「キッズリターン」を越える青春映画になるんじゃないか。で、話の中に時折出てくる、師匠・ビートたけしのかっこよさよ。全ての行動、言動が男惚れ必至のかっこよさ。水道橋博士氏にはいつかそんな「ビートたけしの優しい夜」を一冊にまとめて読ませてほしい。
HDDチェックはBSでやった田原総一郎特番。ディレクター時代のドキュメンタリーが3本。噂には聞いていたがやはり強烈。過剰な演出が本質を浮き上がらせ、反転してガチなドキュメンタリーたらしめるという。
で昨日は久々にライブ。pupa@サンケイプリーゼ。生々しさのある、まさにバンドなライブ。ライトを効果的に使った派手なステージもまた似合ってる。ミュージシャンシップに溢れたいいバンドのいい演奏。その当たり前が成立する奇跡。肉体的でありながら夢見るようなステージだったな。それにしても今さらながらユキヒロさんのドラムに痺れたなぁ。ソリッドなドラミングがやたらかっこいい。高野さんのあの曲がpupaバージョンで聴けたのも嬉しかった。そしてもち知世さんはキュートだった。いやキュート過ぎた。
帰りにタワーに寄ってCD物色。SNSDの新作は入荷待ちか。界隈で話題のblue marble「ヴァレリー」遅ればせながら購入。このPVは秀逸。ワンアイデアの勝利。

車中はポッドキャストタマフル西寺郷太氏による「光ゲンジ」1stアルバム全曲解説。当時は高校生。カーくんの笑顔が癇に障って嫌いだったことはよく覚えてる。ま、友達もいないへそ曲がりのサブカル高校生が聴く音楽ではなかったし、耳に入ってくることはもちろんあったけど、積極的に聴くことはなかったなぁ。たまに自分の番組で80年代ちょい懐かし曲をかけるんだけど、数週間前その選曲で聴いて、ド派手で過剰にドラマティックな展開に改めて衝撃を受けてたとこだったので興味深く聞く。ふと思う。今のK-POPってもしかしたら、日本の歌謡曲の“もう一つの未来”だったのかもしれない。おニャン子秋元康)の台頭とバンドブームによって日本の歌謡曲は終わりを告げた。プロの作家は追いやられ、歌謡曲からは物語が失われた。バンドブームはいつしか「バンド風」ブームにとってかわり、秋元康的な方法論と結び付き「J-POP」が生まれた。確かに80年代後半、歌謡曲は飽和状態だった。崩壊は必要な選択だったのかもしれない。先日、松本人志氏は「プロとは素人と圧倒的な差をつけること」と語っていたが、歌謡曲いや歌謡界、音楽“ギョーカイ”かな、が選んだのは素人レベルまでクオリティを下げることだった。玄人から毛を抜いた、素人に毛が生えた「J-POP」の数々はバブルとあいまみれ、多くのミリオンを生みだす。大成功だった。経済的には。しかしそれは所詮バブルにすぎなかった。泡がはじけ、そこに何が残ったのか。いや、どんな時でも優れた音楽はあるし、志高いミュージシャンはいる。どんな時代であっても音楽は続いている。しかし、その音楽はどこまで届いているのか。話、少し戻して「クオリティを下げる」ことが大衆性を得る近道と考える人は、実は今も大多数で、それは常識のようにさえ言われている。90年代に生まれたバブルの方法論が、ギョーカイの常識になっている恐ろしさ。これははっきり言って身をもって感じるし、実際に言われることも多い。パフュームのヒットはその常識を越えて、クオリティでヒットしたという事実を見ながら、多くの作り手はパフュームを越えるクオリティを目指すことよりも、簡易な劣化版を作ることに躍起になった。そんな人たちは今、躍起になってK-POPの劣化版の制作にいそしんでる。K-POPそのものでさえも日本のギョーカイを通して出てくるものは韓国のそれと比べて、明らかに劣化している。
なんて、なんか思いつくままに勢いで書いてしまった。問題はそんな中で送り手として何ができるのかってことなのだけれど。