2025/11/15
8時起床。朝から京都へ。出町座でホン・サンス監督「旅人の必需品」を観る。ソウルを旅するフランス人のイリス。フランス語の個人レッスンをしながら生徒の家を渡り歩き、年下の恋人の家に帰る。イリスはいったい何者なのか?なんてことは問わない。ホン・サンス映画なのだから。3度目のタッグとなるフランスの名優、イザベル・ユペールがマッコリを飲み、詩を読み、ソウルの街を旅する。ふわふわと漂うストレンジャー。イリスはソウルの街で、自分が「旅人」という異物であることを優雅に楽しみながら自分が自分であることを再確認しているようにも見える。それにしてもホン・サンスとイザベル・ユペール、軽やかな大人2人が軽やかに語る人生哲学。まごうことなきホン・サンス映画だったなー。
いつもの「ボナペティ」で焼き立てパンを買って地下鉄で移動。京都シネマまで。ロビーで買ってきたパンを食べて、本日2本目、三宅唱監督「旅と日々」を観る。海辺の町にやってきた女。そこで出会った男もまた旅人。何を語るでもなく町を散策する二人。そして大雨の日、二人は海で泳ぐのだった。河合優実演じる物憂げな女のこの物語は映画内映画。映画が終わり、その舞台挨拶からまた物語が始まる。映画はつげ義春の漫画「海辺の情景」を映画化したので、この映画の脚本を書いたのは韓国人の李。彼女はその場で「私には才能がない…」とうつむくのだった。そして李は旅に出る。ひょんなことから古びた山奥の小さな宿に泊まることに。どうにもやる気の感じられない宿主。雪深く何もない山奥で過ごす旅の時間。奇しくもさっき観てきた「旅の必需品」と同じ「旅」の映画。両作ともに旅を描きながら「旅」という概念を描いているよう。知らない街に自分を置いて、どこにもいない誰でもない自分と出会う。お大袈裟に言ってしまえば、それは人生そのものかもしれない。たまたま偶然そこに生まれ、いずれはその地から去っていく。こんにちはとさようならを繰り返す人間なんてみんなストレンジャーだ。生まれてから死ぬまでせいぜい100年。自分が自分であることを知る旅を続けているのだ。李を演じるのはシム・ウンギョン。朴訥とした韓国語のモノローグ、どこかとぼけたユーモアが漂う佇まいがとても良い。そういえばイザベル・ユペールもユーモアを漂わせてたな。ケセラセラってな感じで。映画もまた観る人を見知らぬ場所まで運んでくれる。
京都シネマで映画を観ると帰りは京都駅まで歩く。地下鉄なら2駅分、歩いたら25分ぐらいの距離か。radikoとか聞きながらぶらぶら歩くその時間が好きだ。最近はなかなか旅行もできないが、なんとなく旅行してるような気分になる。外国からの観光客も多いからなおさらだ。何となく回り道して見たり、小腹がすいたらマクドにでも寄ってハンバーガーにマックシェイク(チョコ)。自由で気楽な25分の旅だ。
夜はNHK ONEで夜ドラ「ひらやすみ」まとめ観。森七菜が森七菜を更新していて最高。楽しい。
2025/11/16
8時起床。祖母の3回忌法要。朝から妻と京都のお寺まで。本堂で1時間ばかりの法要。子供の頃は退屈だと思っていたがこの歳になるとお経を聴きながらの穏やかな時間が心地よい。
母、兄と一緒に近くのうどん屋でランチ。うどん屋でランチて。昼食。そのまま実家に立ち寄りお茶してから帰宅。
図書館に行って本を返してまた一冊借りる。定年になったら図書館に入り浸る爺さんになるんだろうな。いや、その頃には目が弱ってるかな。
2025/11/17
夜、昨日見損ねたNHKのドキュメンタリー「イゾラド」観る。南アマゾンの森の奥に暮らす未知の民族“イゾラド”。目撃情報が途絶え凡そ10年。再び姿を現した彼らの姿をカメラは捉える。彼らを守り、保護しようとする人々がいる一方、環境破壊は進み森の木々を不法に伐採する者も現れる。時に攻撃的な姿勢を見せるイゾラド。彼らも自分たちを守るためにそう選択せざるを得なかっただろうことがわかる。文明や経済が彼らの世界に迫ってくる。接触してきたイゾラドたちは熟れたバナナと服を求めていた。もう後戻りはできないのだ。
2025/11/18
朝から仕事で近江八幡。寒い。昼は迷った末、結局吉野家の牛すき鍋定食。寒かったのでつい。
夜、配信でダイアンの単独「まんざいさん2025」を妻と観る。なんだかんだでここ5、6年毎年観てるな。漫才をたっぷり5本。あるシチュエーションが提示され、ユースケ扮するナチュラルな“狂気の人”に津田が巻き込まれ翻弄され怒りついには怯えだす。あくまで当たり前に、日常的に、狂っている。ユースケのポーカーフェイスが面白さを倍増させる。とか、まぁ最近はもはや笑いについてはわからなくなっているのだけど、ダイアンの漫才には信頼と実績があるな。
2025/11/19
今日はまた一段と寒い。ヒートテックにニット、コートも。ビジネス用のコートを買わなきゃと思いつつ10年近く経ってしまっている。型も古いしセンスも感じられないが結局まだ着れるからなぁと新しいものを買わないまま冬を迎え冬を越してしまう。多分今年も買わないような気がする。
2025/11/20
昼休みの読書。村井理子著「義父母の介護」読了。すっかりはまって4冊目。認知症になった義母。そのことをわかりながらもどこかで受け入れられない義父。近くに暮らすフリーランスの嫁である著者が、長らく反りの合わなかった義父母の介護に結果的に多くの時間を取られることになる。愛情より、どうなるのか見てみたいという興味が先行、鋭すぎる観察眼を持ち、微に入り細に入る記録魔である著者がその過程で起こった様々な“事件”を書き綴る。しっかりもので何事にも完ぺきだった義母は出来ることが少なくなり出来ないことが増えていく。現実的にはかなりシビアな状況だが、筆者の姑に対する愛憎がユーモアと毒舌の微妙な匙加減で書かれていてぐいぐいと読ませる。でそんな義母以上にやっかいなのが義父。義母に振り回されつつ弱気になったかと思えば強気に出る。泣き落としと恫喝を使い分け決まったことを根底から覆すなどとにかくやっかいなのだ。90歳で認知症の妻を抱える身の上を差し引いてもやっかいで、そんな義父と対峙し、すかしなだめ「義父母の介護」というインポッシブルなミッションを遂行する。この状況が自分に振りかかってきたらと若干怯えつつ、厄介な爺さんにならないようにしなければと思いながら読み進める。介護の現実を冷静に時に感情的に書きながら、その中で実母、実父への追憶が過り「家族」に想いを馳せる。ここんとこ続けて村井さんのエッセイ、それも家族について書かれたものを読んできたこともあってその想いの深さを感じる。家族という厄介で面倒、だけど愛と情が捨てきれずにどこかに残る関係。今作にもまた心掴まれたな。
父が亡くなったのはもう18年も前か。癌が見つかってわずか一年で亡くなってしまったし、その時はまだ母も若かったので自分が介護することはなかった。義父は晩年認知症になって義母はずいぶん苦労していた。近くに住んでいるので僕も何度か行方不明になった義父を探しに車を走らせたことがある。幸いにもその都度ちゃんと見つかって良かったが、とにかく穏やかで優しかった義父が認知症によって義母に手をあげることもあったという。その義父も亡くなって10年以上になる。母、そして義母はありがたいことに現状まだ元気で頭もしっかりしている。だが、なんだかんだでともにもうそれなりの年齢だ。いつ何が起こってもおかしくない。覚悟しとかなきゃいけないな。
2025/11/21
外回り。近江八幡まで。せっかくなので久々にお昼は初雪食堂へ。親子丼とうどんのセット。出汁が沁みるねぇ。素朴な味だが実に美味しい。これで今日の仕事は終わりだ。
と言いたいところだが会社に戻ってお仕事。金曜の夜は映画でも観たいところだが、明日は仕事で朝早い。寄り道することもなくまっすぐ帰宅。最近は最低でも7時間半は寝たい。なんなら8時間寝てもいいぐらいだ。とにかく睡眠が大切だと水木しげる先生も言っていた。なので11時には布団の中で目を閉じる。で夜中の3時と5時に猫のチャ坊に起こされる。昼間はずっと寝てるくせに夜中になると腹が減ったと寝ているそばに寄ってきて大きな声で鳴きだす。無視してると頭を手でちょんちょんとつつき出しその力がだんだんと強くなる。しょうがないのでスプーンに一杯分の餌を皿に入れてやる。ガツガツと食べ終わると、あともう少しくれとまた寄ってくる。次はスプーンに半分の餌を入れる。それを食べ終わると満足する。で次は窓をカツカツと叩き始める。夜の散歩に行きたいとまた鳴きだす。しょうがないので窓を少し開ける。でもすぐには出ない。しばしその場で外の風にあたり逡巡してからやっと外に出る。これが夜中3時の儀式。起きたついでにトイレに行ってもうひと眠り。で5時、窓の外から鳴き声。ひとしきり運動して帰ってくる。もうひと鳴きして餌をねだって食べ終わると満足げにソファのど真ん中で腹を出して眠る。とまぁこれがほぼ毎晩続くのだ。でもう一匹の猫、クロは20歳を越える老猫。24時間中23時間は押し入れで寝ている。トイレまでの道のりはレッドカーペットのごとくトイレシートが敷いてある。トイレに辿り着く前に出てしまうので。というか意図的に途中でやってる節がある。毎日、3、4回は粗相した部分のシートを切って処理する。もはやトイレ職人だ。子育ては終わったが、初老の夫婦は猫の世話に忙しいのだった。
