日々の泡。

popholic diary

嵐の金曜日

明日から連休。猫の世話したり、娘のご飯作ったりしてるうちにあっという間に過ぎてくんだろな。
最近は仕事もマイペース。一日PCと格闘して、家でもPCの前であれやこれや。初めてネットに触れたのは95年頃か。会社のPCでお昼休みにネットサーフィンしてたっけ。浅草キッド水道橋博士の日記は多分最初から読んでる。98年にHP立ちあげて、それが基で会社でもシステム担当に。転職した年にブログ始めた。それが2003年。紆余曲折あって今もまたWEB絡みの部署に。なんだか縁があるのか。とかぼんやりと。
全然話変わるけど、テレビ観るとすっかり紳助問題はなかったことになってるな。紳助が嫌われる理由もわかるし、僕も感動路線の紳助は苦手だった。でもどうしても大嫌いになれない理由がある。KBS京都の深夜番組「ハイヤング京都」がスタートしたのは僕が小学5年生の時だ。月曜から日曜まで日替わりのパーソナリティ。月曜はおすぎとピーコで火曜が桂文珍、水曜はつボイノリオで木曜は当時人気絶頂のザ・ぼんち。金曜は若宮テイ子で土曜は「サウンドリエーター」社長の鈴置雄三、日曜はまだ無名だった立原啓介。枕元にポケットラジオを置いて毎日ききながら寝てたな。ある時、仕事で番組を休んだザ・ぼんちの代役で登場したのが紳助・竜介だった。はっきり言って人気モノではあったが喋りはてんでダメだったザ・ぼんちより数倍おもしろかった。で番組スタートして1年後、島田紳助はピンで「ハイヤング京都」土曜日パーソナリティとして登場することになる。僕は小学6年だった。まだ20代でギラギラした若手芸人だった島田紳助トークは、もうとにかく爆笑につぐ爆笑で、僕は毎週土曜日が楽しみになった。特に紳助が語る学生時代からの仲間たちの話は大爆笑物で、後にタレントになった「土建屋よしゆき」も「俺よりおもろい奴」としてよく話に登場してたっけ。あと、頼めばどんなものでも調達してくる胡散臭い男・「バッタ屋ハマダ」の話も鉄板だった。当時たまたま関西に来ていた作家の小林信彦氏が偶然、ラジオを聴いて紳助が語る「バッタ屋ハマダ」のエピソードに爆笑。自身の作品「唐獅子源氏物語」の中に、何でも調達してくる男「ホッパー染谷」というキャラクターにして登場させたというエピソードがある。やんちゃで小心で大胆で繊細な若き芸人、島田紳助。ラジオの前でどれほど笑わせられたか。だから、どうしても、心から嫌いになれない。「ビートたけし」「明石家さんま」という本物の天才を前に、自分は天才ではないとわかってしまっていた島田紳助がどれだけの計算をして、どれだけの努力をして、どれだけ巧妙な手口で、20年近い歳月をかけてテレビのトップに昇っていったのか。長谷川公彦という男がどんな男だったのかは知らない。その素顔がどんな卑劣で汚れたものだとしても、僕は芸人・島田紳助のことを、ラジオの前で腹抱えて笑った思い出とともに忘れることはないだろう。